2010年5月11日火曜日

105 総括

 9時40分、痛い脚を引きずりながらゴールした。同行のヨシオちゃんが10時20分頃、そしていづみ先生が11時30分頃、無事ゴール、メンバー全員が完歩し終了した。去年完歩したいづみ先生のご主人が献身的にサポートをしてくれて、おかげさまでの完歩である。
 今回で3回目のチャレンジとなる。完歩、愛野で挫折、そして完歩。1回目は途中で足が痛くなりテーピングをしたのだが、そのぐるぐる巻の稚拙なやり方でうっ血した足が途方もなく腫上った。それでも意地のゴールである。45歳だった。その時、もうこんなのには出ないとつくづく思ったのだが、月日が経つにつれ、その時の苦しみが記憶から遠ざかるとともに、足さえ腫れなければそう大したことではないと、思うようになった。そして去年、50歳になった記念に歩いて見ようと思った。シェイプアップ用のきつく引き締まったパンツを履いて定期的に訓練し、そのパンツを履いて出場したのだが、脚がひどく痛くなり、途中で普通のパンツ着替えたのではあるが時既に遅く、年齢と共に衰えた体力と気力では辛うじて愛野までが限界であった。途中で挫折すると、これで終わる訳には行かないと思うのは人情である。いづみ税理士先生は去年の諫早挫折の時に既に今回のリベンジを心に期していた。
 人間とは本質的に「行」すなわち「苦行」を求めるものであろう。何かを振り払おうとしたり、願いを掛けたり、悟りを開こうと思ったり、悪しきものに流れるのも人の常であるが、また一方では苦行・修業の類いが好きなようである。あのヨシオちゃんでさえ、105、また出てみん、という誘いに、1回目挫折、2回目男の意地でボロボロになりながらゴールし、もう2度と出るもんかと誓ったはずなのに、そうね、またやって見るか、となった。
 3回出場してみて、分かった。完歩するには靴やウェアや体調や精神力や、確かにいろいろな要因がある。そのすべてが揃ったとしても、最終的に愛野を過ぎたラスト30キロは地獄の苦しみである。靴を替えれば、「歩く助け」を履けば、いろいろ工夫しても結局は、脚の皮はずる剥け、筋肉痛は極みに達し、「あ~、出なきゃ良かった、2度とでんぞ」、そうつぶやきながらとぼとぼと歩くことになる。
 アスリートになるのも一つの方法ではあるが、そんな柄でもない。健康のために歩くことは重要ではあるが105は恐らく健康には有害である。これで105は卒業しよう。もう2度と出ない・・・

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