2011年11月10日木曜日

感動の話

 去年、輸入住宅:セルコホームの全国総会の折、研修会が開催された。講師は社員教育専門の会社㈱新規開拓の女性社長でとても良い講演であった事が今でも思い出される。その中で小学校の先生の小話を、威風堂々と暗唱され、小生も学生時代は弁論部に所属し、「話す」と言う事に対しては一家言を有しているつもりではあるが、内容に感動し、態度に気圧される状況であった。その後、僕はその時の学校の先生の小話を、色々なキーワードを考えながら検索したのだが、なかなかその原典を探し出す事が出来なかった。
 大学時代の弁論部の友人に浅野目義英と言う埼玉の県議会議員がいる。彼は26歳で上尾の市議会議員になり30代半ばで市議会議長になった。その頃、日本経済新聞の正月版で彼が囲み記事で紹介されているのを、僕は長崎の片田舎で、何度も何度も読み返した。彼はまさに時代の寵児であった。その後の彼は、例えばこんな記事で紹介されている。

『夕刊フジ』(1996.11)/厚生省大汚職 橋本政権と茶谷

自らの“秘蔵っ子”として埼玉に茶谷容疑者を送り込んだ岡光氏の影響力をうかがわせる内容だが、岡光氏自身の名がひんぱんに登場するのは、選挙の前哨戦。自民党の公認を取り付ける戦いだった。激しく党の公認を争ったのは「日本一若い市議会議長」として知られる浅野目義英・上尾市議会議長(三八)と、茶谷容疑者だ。

浅野目氏は、自民党の福永信彦代議士の後ろ盾を得、二十五歳で上尾市議に初当選。三十八歳の若さで議長を務め、地元での知名度は茶谷容疑者をはるかにしのいでいた。党公認候補は上尾支部で決めることになっていたが、調整は難航。「浅野目は知っているが、茶谷って誰だ」の声も市議の間から出て紛糾した。水面下での公認一本化工作も進まず、今年七月には、上尾市内の市議宅で茶谷容疑者と浅野目氏が会い、直接対決するシーンもあった。その場にいた市議はそのときの模様をこう話す。
「会議は夕方五時から六時間に及びました。『絶対にあんたを応援することはない』と浅野目氏側が突っぱねたのに対し、茶谷容疑者は二、三言話しただけ。印象的だったのは『私はハメられたんですね』とボソッといったことでした」
茶谷容疑者は、平成四年四月から昨年三月まで埼玉県高齢者福祉課長。その時期、小山容疑者の社会福祉法人が運営する特別養護老人ホームには補助金三十億円以上が支給された。うち上尾市内の特養ホーム分は十億円以上。上尾市は「茶谷容疑者が自分にとって有利な所と考えても不思議はない場所」(関係者)のはずだった。加えて自民厚生族に通じる岡光氏の顔、補助金で太った小山容疑者の金があれば、すべてが順調に進むはずだった。「それが選挙区にきてみると知名度抜群の若者(浅野目氏)がいて思うようにいかない。それが『ハメられた』という一言に表れたのではないか」と市議の一人はいう。
思うようにいかない選挙区の動きに慌てたのは岡光氏も同じ。七月中には、茶谷容疑者と、その選対会計責任者、県議らが厚生省に岡光氏を直接訪ね、公認決定にまつわるゴタゴタを報告させられたという。
結局、支部では最後まで結論が出せず、党県連の裁定で八月六日、茶谷容疑者を公認候補に決定。茶谷容疑者は同月、厚生省を退職して選挙に臨んだ。
落選は、公認争いが尾を引き地元が一本化できなかったためという。茶谷、小山両容疑者、そして岡光氏の凋落はここから始まった。いや、関係者によれば警視庁の内定はすでに一年前から始まっていたというから、
茶谷容疑者の「ハメられた」は逮捕に至る今の事態までを予測してのものだったかもしれない。

 そんな彼とは今でも交流は続いていて、最近ではフェースブックで頻繁に動静が分かるようになった。その彼のFBに実は冒頭の小話が紹介されていた。

【招待状】

ある小学校で良いクラスをつくろうと一生懸命な先生がいた。

その先生が五年生の担任になった時

一人、服装が不潔でだらしなく、遅刻をしたり、居眠りをしたり

皆が手をあげて発表する中でも、一度も手を上げない少年がいた。

先生はどうしてもその少年を好きになれず

いつからかその少年を

毛嫌いするようになった。

中間記録に先生は少年の悪いところばかりを

記入するようになっていた。

ある時、少年の一年生からの記録が目に留まった。

そこにはこう書いてあった。

「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。

弁口もよくでき、将来楽しみ」とある。

間違いだ。他の子に違いない。

先生はそう思った。

二年生になると

「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」

と書かれていた。

三年生では

「母親の病気が悪くなり、疲れていて、

教室で居眠りをする」。

三年生の後半の記録には

「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」とあり、

四年生になると

「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子どもに暴力をふるう」。

先生の胸に激しい痛みが走った。

だめと決めつけていた子が突然、

深い悲しみを行き抜いている

生身の人間として自分の前に立ち現れてきたのだ。

先生にとって目を開かされた瞬間であった。

放課後、先生は少年に声をかけた。

「先生は夕方まで、教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?

わからないところは教えてあげるから」。

少年は初めて笑顔を見せた。

それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。

授業で少年が初めて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起こった。

少年は自信を持ち始めていた。

六年生で先生は少年の担任ではなくなった。

卒業の時、先生に少年から一枚のカードが届いた。

「先生は僕のお母さんのようです。そして、今まで出会った中で一番素晴らしい先生でした」

それから六年。またカードが届いた。

「明日は高校の卒業式です。僕は5年生で先生に担当してもらって、とても幸せでした。おかげで奨学金ももらって医学部に進学する事ができます」

十年を経て、またカードがきた。

そこには先生と出会えた事への感謝と、父親に叩かれた体験があるから

感謝と痛みが分かる医者になれると記され、こう締めくくられていた。

「僕はよく五年生の時の先生を思い出します。あのままだめになってしまう僕を

救ってくださった先生を、神様のように感じます。

大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、五年生のときに担任して下さった先生です。」

そして一年。

届いたカードは結婚式の招待状だった。

「母親の席に座ってください」

と一行、書き添えられていた。

先生は嬉しくて涙が止まらなかった。

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