2016年3月28日月曜日

長崎新幹線のお話 終わり

佐世保線の輸送改善について
 表定速度と言う概念がある。途中駅での停車時間も含めた平均速度のことで、博多〜大分間は時速89キロメール、対してJR佐世保線では時速52キロメールとなっている。なぜそんなに遅いのかと言うこと、次の理由がある。
 •曲線通過時の速度制限  半径600メートル未満の割合が武雄温泉〜有田駅間で21%、有田駅〜早岐駅で32%、早岐駅〜佐世保駅で48%となっている。
 •縦断勾配、要するに高低差。武雄温泉駅〜有田駅では10%超が57%、15%超が
35%、20%超が18%となっている。
   輸送改善=高速化を図るためには、曲線を改良したり、カント修正(外側の線路を高くする)、また振子機能(曲線通過時に車体を傾斜させる)付きの車両を導入すると言う方法が一つ。次に枕木をPC(プレストコンクリート)枕木にする。しかも高速になるにつれ枕木間を密にしなければならない。また佐世保線では全通過駅で行き違い可能になっているが、それを一線スルー化にするなどの改良改善が必要である。
 現在特急みどりは最高速度時速95キロメールで走行しているが、上記の改良などを行い最高速度を110キロメールで走れる様にすると、博多〜佐世保間、5分ほど時間短縮が出来る。特急かもめの様に振子機能がある車両を導入し最大限の高速化を行い最高速度時速130キロメールを実現しても時間短縮効果は11分前後とされている。
  FGトレインが佐世保線に導入された場合、どの位の時間短縮ができるのか、そのための費用はどの程度必要なのか、いわゆる費用対効果、4月中旬には報告書ができる様である。
  その際はまたご報告いたします。

2016年3月26日土曜日

長崎新幹線のお話④

 平成34年にフル規格で長崎ー武雄温泉間が完成する。この間は新幹線が運行する。武雄温泉駅で在来の特急に乗り換えて博多へ行くこととなる。FGトレインが平成34年の中旬、2編(8輌で1編)、順調に行けば完成する。FGトレインは武雄温泉駅から在来線に乗って、博多まで行く。九州新幹線の新鳥栖駅にアプローチできるのは平成36年になる。その頃にはFGトレインも量産され、長崎を出たFGトレインは武雄温泉駅で軌道を変え在来線に乗り、在来線を走り、新鳥栖駅で軌道を変え九州新幹線に乗って博多へ行くことになる。現状においては、平成36年の完成形でも2回軌道を変えなければ博多まで行くことはできないのである。完成形において、長崎新幹線、長崎博多間は1時間20分、現行在来特急に比べ28分短縮される。
 ビミョー、ってな感じである。

2016年3月24日木曜日

新幹線の話 番外政界周辺人物遍

 新幹線など巨大なプロジェクトが動き出す時、利権をめぐりドラマが繰り広げられる。新幹線早岐近接ルートの際には某代議士系が土地を買いあさったという噂が流れた。また上五島洋上備蓄基地の建設に際しても、別の某代議士系の地上げが噂された。
 五島出身で福田派所属議員秘書の経歴を持つS不動産会社M社長は、まずこの上五島洋上備蓄基地の頃から、その世界で名を馳せる事となる。その後長崎新幹線が膠着状況に陥ったさなか、新幹線の長崎駅に予定されていた場所にプリンスホテルを建てた。S社長は最盛期には住専から4000億の資金を引き出したと言われたが、バブルがはじけ、プリンスホテルも手放し、世の喧騒から少しずつその名前が消えて行った。
 ところが何と、2007年、朝鮮総連本部ビル売却問題で登場する事となる。詐欺容疑で逮捕されたのだが、一緒に逮捕された緒方重威は何と元公安調査庁長官、である。そのニュースを見たとき、このM社長って、あのM社長かな、とにわかに信じがたく、しかし、あのM社長なのである。大物さが、初めて分かった次第である。
 リレー方式とは、長崎から新幹線に乗って、武雄温泉で在来線に乗り換えて、博多に行くという事で、あまり心が弾まない。取りえずフル規格の長崎ー武雄温泉間は線路を内側に一本加えて、在来特急を走らせた方が、乗り換えなしで便利なような気がする。ましてほとんど高速バスを利用している、価格差はどうなるのだろう。
  県の職員が長崎新幹線にまつわる情報を建設会社社長に漏らし、捕まった。もらった金額は72万円である。
 話が、小さくなってしまった。

2016年3月22日火曜日

長崎新幹線のお話③

決して密約と言う事ではなく、佐世保市にもそれなりの文章が残され、「むつ」の修理引き受けとリンクして、長崎新幹線が現実味を帯びてきたのは間違いない。時系列には昭和48年11月10日九州新幹線西九州ルート路線決定、昭和50年、むつ受入れ打診、昭和53年10月16日、むつ受入れ、となっている。
 昭和60年1月22日、一般的にアセスルートと呼ばれる佐世保市早岐駅に近接するルートが発表された。しかし昭和62年4月には国鉄はJRへ変わり、より採算性が問われるようになった。長崎新幹線は膠着状態に陥り、遂に平成4年12月5日、アセスルート(佐世保よりルート)を断念する旨の知事・市長共同声明が出されることとなった。
 佐世保市議会には知らされることも無かったことから、市議会は市長に対し問責決議を可決し、さらに議長が辞職する事となった。その後佐世保市議会は県全体の発展と言う観点から「苦渋の決断」をし、短絡ルートを受け入れ、それを進める中で、佐世保線の輸送改善に取り組むこととし、また県においても「九州新幹線等の整備に関する基本的考え方」を平成4年11月24日に示し、県議会全員協議会においても了承されている。
 以上の様な経緯で、長崎新幹線については、何か事が動けば、当然に佐世保市に言うべきである、と言うのが佐世保市の基本的な考えなのである。
 その長崎新幹線、今どんな話になっているのか、佐世保線の輸送改善って何、と言う事であが、話があまり盛り上がらないのは、何となく、分かります。
つづく

2016年3月20日日曜日

長崎新幹線のお話②

 昭和48年11月10日、九州新幹線西九州ルートの路線決定が行われた。ただ路線決定したからと言ってトントンと進むのではなく、新幹線は時には平然と昭和の三大バカ査定(戦艦ヤマト・伊勢湾干拓・青函トンネル)に類して表現されるなど、すんなりとはいかない。そこで、知恵が絞られる。
 昭和50年、原子力船むつが放射能漏れを起こし、修理を受け入れる港がなく、洋上を漂流することになった。それを受け入れるところは、すでに米軍の原子力艦艇が入るなど核アレルギーが少なく、放射能監視体制があり、修理機能を備えた造船所があることなどから、佐世保市しかない、と言う事になった。そこに登場するのは、辻一三佐世保市長、久保勘一長崎県知事、松田九郎県議会議長、三木武夫首相、自民党河本政調会長など。こういう時は
「何してもらえば、何する事は、政治の務めですから」とか
「何が、何せん時は、何しますから」とか
「そうそう、あなたの言う通り、僕の思う通り」何ぞと会話しながら、政治的な妥協が図られる。
 昭和51年2月10日、三木総理大臣から久保知事、辻市長に対し、佐世保港での「むつ」修理について要請がなされた。その後三木首相はむつの見返りは十分検討すると語り、久保知事が河本政調会長にむつ見返りは長崎新幹線の即時着工であるとの念押しを行うなどし、核封印方式など知恵が絞られ、昭和53年10月16日、むつは受け入れられた。
 三木総理の三木派はその後河本政調会長の河本派となるが、久保知事は知事になる前は三木派の参議院議員、松田九郎県議会議長はそうした流れの中で、その後河本派の代議士となる。河本敏夫は「クリーン三木の濁一点」と時に評された三木派の資金調達係で、大手海運会社三光汽船の実質的オーナー、その後衆議院選挙に際し三光汽船からバルクキャリア船をSSKに大量発注し、松田九郎をSSK丸抱え支援させ、松田九郎の初当選を支えたと、言われた。
つづく

2016年3月19日土曜日

長崎新幹線のお話①


 近頃、佐世保市議会や佐世保市において、長崎新幹線の議論が局地的に沸騰しているように感じる。「局地的」と言う表現が正しいのかどうか、とりあえず内容を良く知ることが第一である。
 都会から故郷へ帰る者は、まず新幹線に乗って、故郷へ近づくにつれ、乗り換える乗り物はスピードが落ち、地域的な交通手段で到着する。平成34年には、何と長崎から新幹線に乗って、武雄温泉で在来に乗り換え、博多でまた新幹線に乗り換える事になる。これは人々の生活が便利になることかなのか、普通に考えれば普通の答えが返ってくる。だから一部で盛り上がったような議論が一部関係者の間でしか、盛り上がらない。
 一部関係者には佐世保市も含まれる。FGT(フリーゲージトレイン)、いわば複数の軌道幅に合わせることができる新幹線、が完成しない事で、リレー方式とか騒がれ始めた。そうした事が国土交通省から発表され、説明されるのだが、長崎県、長崎市、そして沿線の大村、諫早、さらには島原半島の自治体には説明会の声がかかるのだが、その席に佐世保市は呼ばれていない。
 「何でや」となる。
 「お前たちは(誰の事かはさておき)、誰のおかげで、新幹線が、長崎に来るごとなったか、分かとっとか」と言う事である。
 「いっちょん分かっとらん」となり、何でも不手際を知事が詫びに来るらしいとか、佐世保市や議会の幹部が集まるらしいとか、ひそひそ話が、もわっとしている。
 一年生議員の僕は、それはどういうことなのだろうと、改めて知る事から始め、大方の内容を理解した時、さて、
 「どうっちゃならん!」と怒りがこみあげてくるのかどうか・・・・ 
   つづく