2016年3月22日火曜日

長崎新幹線のお話③

決して密約と言う事ではなく、佐世保市にもそれなりの文章が残され、「むつ」の修理引き受けとリンクして、長崎新幹線が現実味を帯びてきたのは間違いない。時系列には昭和48年11月10日九州新幹線西九州ルート路線決定、昭和50年、むつ受入れ打診、昭和53年10月16日、むつ受入れ、となっている。
 昭和60年1月22日、一般的にアセスルートと呼ばれる佐世保市早岐駅に近接するルートが発表された。しかし昭和62年4月には国鉄はJRへ変わり、より採算性が問われるようになった。長崎新幹線は膠着状態に陥り、遂に平成4年12月5日、アセスルート(佐世保よりルート)を断念する旨の知事・市長共同声明が出されることとなった。
 佐世保市議会には知らされることも無かったことから、市議会は市長に対し問責決議を可決し、さらに議長が辞職する事となった。その後佐世保市議会は県全体の発展と言う観点から「苦渋の決断」をし、短絡ルートを受け入れ、それを進める中で、佐世保線の輸送改善に取り組むこととし、また県においても「九州新幹線等の整備に関する基本的考え方」を平成4年11月24日に示し、県議会全員協議会においても了承されている。
 以上の様な経緯で、長崎新幹線については、何か事が動けば、当然に佐世保市に言うべきである、と言うのが佐世保市の基本的な考えなのである。
 その長崎新幹線、今どんな話になっているのか、佐世保線の輸送改善って何、と言う事であが、話があまり盛り上がらないのは、何となく、分かります。
つづく

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